2019年


ーーー8/6−−− 辛かった餓鬼岳登山


 
昨日、北アルプスの餓鬼岳(標高2647m)を日帰りで登った。この山に登るのは1997年以来二度目である。前回は、数名の仲間と登り、私ともう一人は山頂付近の山小屋に泊まり、他のメンバーはテント泊だったと記憶している。夜、小屋から屋外に出て眺めた安曇平の夜景が圧巻だった。餓鬼岳の登りはなかなか厳しいものであったが、この程度の事なら珍しくないという印象もあった。それを今回日帰りでやったのだが、完全に打ちのめされた。

 日帰りで北アルプスの山を登るということを、この地に移り住んでから度々行ってきた。自宅に最も近い燕岳から始まり、爺ケ岳、常念岳、蝶ケ岳、蓮華岳などを登った。蓮華岳は一回だけだが、その他の山は何度も登っている。一昨年は鹿島槍ヶ岳を日帰りした。登山口から山頂までの標高差1800mほどの手強いコースである。その年は蝶ケ岳から常念岳を回る三角コースの日帰りもやった。それやこれやで、「まだまだ登山能力に衰えは無いな」という誤った認識が醸成していったと、今では思う。

 今回何故餓鬼岳を試みたのか。最近この地に住み始め、山登りに興味を持ちはじめた知り合いがいる。体力トレーニングのために毎日のように登っている光城山で、常連の人たちと顔見知りになり、いろいろ登山の情報を聞くようになったそうである。その中で、超人と言われる80歳過ぎの人がおり、餓鬼岳の日帰りもなんなくやってのけるという事を知り、ある時私に「凄い人がいるものですね」と話してくれた。そこで、餓鬼岳を日帰り登山のレパートリーに入れることを思い付いたのだった。

 長丁場になることは予想していたので、暗いうちに軽トラで自宅を出た。上り始めは、まだ薄暗い中を歩いた。そのうち雨がザーザーと降ってきた。これは想定外であったが、しばらくすると止んだ。そして代わりに薄日が射すようになり、暑くなってきた。たちまち汗でグッショリと濡れた。上り始めて四時間ほど経ったとき、体調が急激に悪くなってきた。全身に倦怠感が生じ、一歩を上がるのも辛くなった。ペースを落としても脈拍が下がらず、軽い頭痛もしてきた。脱水症状からくる不調と思われたが、持参したスポーツドリンクを飲んでも癒されなかった。それでもだましだまし登って、大凪山辺りまで達したら、すっかり嫌気がさした。ここまでで1000mちょっと上ったことになるが、もはや限界と思われた。引き返すことを真剣に考えた。ところが時刻はまだ10時前。ここから下ったら、昼過ぎの一番暑いときに下山することになる。それも嫌だなと思った。

 ちょうど小広い場所があったので、しばらく時間をつぶすつもりで、ザックを背にして横になった。30分くらいを、ボッーと過ごした。そうしたら少し元気が回復したような気がしたので、もう少し登ってから降りても良いかなと思った。歩き始めたら、アミノサプリが効いたのか、脈拍を押さえて歩き続けることができた。そのような状態になったので、欲が頭をもたげ、山頂まで行くことにした。

 12時半に餓鬼岳の頂上に着いた。12時をタイムリミットに設定していたが、もう少しで山頂を踏める場所まで来ていて、引き返す選択は無かった。夏山最盛期にもかかわらず、この日出会った登山者は数名程度だった。山頂では、ガスに囲まれてほとんど視界は無かったが、時折ガスが消えて野口五郎岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳方面の連なりが見えた。しばらくすると単独行の若い女性が上ってきた。朝燕山荘を出て、縦走してここまで来たとのこと。私が登ってきたルートで下山するので、水場の様子などを聞いてきた。下山地のタクシーの手配は、大凪山辺りで携帯電話をかけるつもりだと言った。その場では「お気をつけて」と別れた。

 餓鬼岳小屋で飲料を調達し、陽に当てて濡れた衣類を乾かしたりして、少し時間をかけて休憩を取った。この時点では、山頂に立てた喜びもあり、疲れてはいたが、気分は軽かった。

 例の女性は先に下ったようだった。じきに追い付くと予想したが、なかなか見えなかった。20分ほど降りたところで、上りの登山者とすれ違いざまに話をしているのに出会った。私が近づくと、女性は「お先にどうぞ」と道を空けたが、私は一緒に下ることを提案した。

 行きずりの登山者と行動を共にするなどということは、私にとって前例の無いことである。相手の体力も技術も分からないままに、迂闊なことを申し出ては、後でどんなトラブルに陥るか分からない。山の上でほのかなロマンスに浸ったり、道中の退屈しのぎの話し相手を求めるなどというのは、私の登山流儀ではない。しかし今回は、これくらい速いペースで歩ける人なら、一緒に下っても良いと思い、同行を提案した。この先のコースには、滑落の危険もあるので、二人で行動した方が万一の場合に備えて安心だと説明した。女性は私の申し出に同意した。

 一見したところ、山のベテランには見えない、もの静かで穏やかな感じの女性だったが、おそろしく健脚だった。私は追い付くのがやっとだった。歩きながら話を聞くと、山岳会などに所属しているわけではないが、山が好きで、個人的によく登っているとのこと。仲間と沢登りをすることも多いとのことだった。どうりで、体力もさることながら、足運びも確かなわけだ。

 午前中に登ってきたコースなので、私は行く先の状況などを説明しながら下った。下りながら、よくこんな所を登ったものだと思った。もっとも登っている時は、こんな場所を下るのはごめんだと感じたのだが。下りに要する時間は、道標の表示では4時間半。私は「我々のペースなら、1時間は早く下山できるでしょう」と軽いことを言った。たしかに大凪山辺りまでは、快調に下った。しかしその後、次第に疲れが厳しくなってきた。標高が低くなってくると、気温が上がる。下りとはいえ、汗で全身が濡れた。熱中症が心配で、水分を頻繁に取る。それがまた汗となってどっと噴き出す。

 加速度的に疲れが増してきた。歩くのが辛くなってきた。疲労が溜まっているので、足の動きが悪い。滑って転んでしたたか足を打った。こんなことは私としては通常無いことなのだが、やってしまった。足は大丈夫だったが、手をついた時に右手の甲を切って、血まみれになった。しばらくして女性はそれに気が付いて、「絆創膏を張りましょうか」と言ってくれたが、その時はすでに出血が止まっていたので遠慮した。

 気が滅入りそうに長い下山だった。鎖、ハシゴ、ロープを使う場所が次から次に現れ、疲れた体に緊張を強いた。沢沿いになると、川の流れを巻くための上り坂が現れる。下りの合間の上りはきつい。それが最後の最後まで、嫌と言うほど繰り返された。夕方ちかくなり、谷間は薄暗くなってきた。私は無事に下山できるのかという恐怖にかられた。もうボロボロだった。「ちょっと休ませて下さい」と、何度も女性に声をかけた。そんなことは不本意だったが、恥ずかしがっている状況では無かった。女性は「はい、私も休みたかったところです」と応えてくれたが、あきらかに私が足を引っ張っていた。

  最後に金属製の足場で本流を渡り、短い坂を上ると、林道に出た。あとは平坦な道を少し歩けば、駐車場に至る。私はまた「ちょっと休ませて下さい」と言って、林道の脇の草原に倒れ込み、ひっくり返った。他人の前に無様な姿をさらすのは恥ずかしい事たが、そういう見栄はとうに無くなっていた。無事に下山できた安堵感が全身を覆っていた。

 タクシーの代わりに、私の車で女性を最寄の駅まで送って行く手はずを決めていた。軽トラまでたどり着くと、足が攣っていて、車の運転に不安を感じた。乗る前に、この日初めての攣り止めの薬を飲んだ。

 車を走らせながら、自己紹介をした。女性は「大竹さんに同行してもらって良かったです。さもなけれが、途中で気持ちが折れてしまったかも知れません」と言った。「それはこちらの方です」と私は返した。彼女の発言は、年配者の顔を立てるための気遣いだったかも知れないが、私の方は本心からだった。なんとか彼女に付いて行こうという気持ちだけで、最後は頑張れた。ときおり彼女の口から出る、のほほんとした会話に、切羽詰った緊張が癒された。

 近年稀に見るきつい登山だった。自宅に戻っても、食欲が無く、夕食がのどを通らなかった。疲労で食事が出来ないなどというのは、学生時代の山岳部以来である。それでも、ビールなどの流動食は取ることができたが。

 この登山で、すっかり自信を無くしてしまった。何十年も登山をやってきたのに、水分調整と塩分補給がうまくできなくなってきていることに失望した。これも加齢によるものか。日常、そこそこのトレーニングをしていても、このざまである。自分にはもはや登山に対する適性が無くなってきているようにすら感じた。なんだか山に登るのが苦痛に感じてきた。

 



ーーー8/13−−−  東海道五十三次


 
今ではほとんど読書をしなくなった私だが、中学生の頃は本が好きで、部活が無い日の放課後は、学校の図書室で過ごしたものだった。

 主に推理小説や冒険ものを読んだが、他に好んで目にした中で、明瞭な記憶が残っているのは、浮世絵の画集である。特に歌川広重の東海道五十三次が好きだった。

 その年齢にしては、渋い趣味と言われそうだが、小さい頃から名庭とか茶室とかの写真集が好きだった私としては、不思議なことではない。

 五十三次の浮世絵には、何とも言えない魅力があった。強いて言うならば、自然の風景と、人工的な物、家や道や橋や舟といった物との調和に惹かれたか。画集を借りて、自宅で繰り返し見たりもした。

 そのような思い出があるので、画集を購入して手元に置きたいという願いが、以前からあった。しかし、これはといった物になかなか出会えず、願いが実現することは無かった。今ではネットで絵を見ることができる。解説や関連資料も添えられた、便利なサイトもある。それでも、画集を手に入れたいという願望は、一定の周期で訪れた。

 先日、ついに願いがかなって、一冊の画集を手に入れた。「歌川広重東海道五十三次五種競演」というタイトルの本である。歌川広重の東海道五十三次は、保永堂版と呼ばれているものが有名だが、その他にも何種類かの版がある。この本は、保永堂版に加えて、著名な四つの版が掲載されている。一つのテーマに関して、五種類の絵が見られるという趣向である。

 私にとっては、子供の頃から見慣れた保永堂版を見るだけでも十分に楽しいのだが、別の製作意図を持った四枚を比べて見るというのも、なかなか興味深い。一人の作家でも、これほど表現方法が違うのかと、驚くこともある。解説に頼るのはあまり好みでないが、専門的な指摘にはなるほどと感じる部分もあり、これも楽しめる。

 夏休みで帰省した息子にこの画集を見せた。息子は東京都品川区に住んでおり、通勤の際に電車の窓から海を眺めることもあるという。その息子が、こうつぶやいた「品川って、こんなだったんだね・・・」





ーーー8/20−−− 夏過ぎる


 
7月の下旬から8月の初めにかけて、10日間ほど長女が孫娘二人を連れて帰省した。婿殿は、仕事の都合が付かず、来れなかった。家族の里帰りに付き合うこともかなわないとは、わが国の労働環境はいまだに厳しいものがあると感じるが、重要な仕事を任されて熱心に働く婿殿には、感謝こそすれ、働き方に異論を唱えるつもりはない。ただ、健康だけは損なわないように、気をつけて頂きたいと思う。

 孫のはるちゃん(5)、めぐちゃん(2)と会うのは、昨年のお盆以来である。5月の連休にも来る予定だったが、熱を出して直前にキャンセルとなった。今回もそのようなことを心配したが、ちゃんと元気に列車でやって来た。一年間の成長ぶりに目を見張った。少しずつとは言え、大人の感覚に近い、知性や理性に基づいた発言や行動が見て取れた。そんな孫たちの変化に、目を細める爺いじであった。

 その10日間の間に、息子夫婦が合流した。可愛い姪たちに会いたいというのが、息子の思惑だったらしい。長女は大阪、長男は東京で暮らしているので、普段は会う機会がないからである。息子の嫁さんは、おちびちゃんたちの遊び相手というきつい役目を買って出てくれて、孫たちの意味不明な遊びに長時間、根気強く付き合ってくれた。

 お盆には次女夫婦がやってきて、4日間滞在した。あいにく台風の影響で天気が悪く、予定していた山登りはできなかった。せっかく登山装備を購入して望んだ婿殿には、残念な結果となった。この二人は昨年5月に結婚し、昨年のお盆に初の帰省をした。そのときに、北アルプスの爺ケ岳に連れて行ったが、途中から雨風に激しく打たれ、厳しい登山となった。どうも天気運が良くない二人のようである。

 楽しく、嬉しく、慌しく、感動し、癒され、遊び、没頭し、忍耐し、興奮し、喋りまくり、騒ぎ、食べ、飲み、ぐったりと疲れ、また気を取り直して頑張る、ということの繰り返しだったこの夏のホリデー。それが過ぎ去った今、よみがえった田舎の静寂の中で、家内と二人だけの生活が戻ってくる。遠来の家族たちと過ごした日々は、既に遠く懐かしい記憶のようになった。




ーーー8/27−−− カクテル


 息子夫婦が帰省したときに、カクテルもどきを作って出した。氷を入れたグラスに、ウイスキー、自宅で取れた梅の実で作ったシロップ、レモン果汁を加え、ソーダ水で割って出来上がり。名前は「まていに」。カクテルの王様と言われるマティーニの名をもじったものであるが、それなりの意味はある。「まていに」とは信州の方言で、「丁寧に」という意味。丁寧に作った梅のシロップを使ったカクテルが「まていに」である。

 それを飲みながら、カクテルの話になった。「シェーカーを振ってカクテルを作るという事をやってみたいものだ」、と私が言うと、息子は「シェーカーとかスキットルとか、お酒みまつわる小道具は、折に触れて欲しくなるものだ」と返した。

 私はこれまでシェーカーを使ったことが無い。と言うか、本格的にカクテルを作ったことが無い。ネットで調べたら、なんだか面白そうで、さほど難しそうでもなかった。道具も特別に高額ではない。この夏休みは、カクテルに挑戦しようかと言う気になった。お盆に次女夫婦が来るので、その際の話題としても面白かろう。

 ネットでシェーカーとメジャー・カップを取り寄せた。シェーカーは予想通りのもので問題無かったが、メジャー・カップは目盛りが付いてなかった。これは別に異常なことではなく、プロのバーテンは訓練を重ね、カップに注がれた液体を目分量で計るそうである。しかし、理系の私としては、目盛りが付いていないメジャー・カップに、違和感を感じたのであった。

 それはともかく、さっそく「まていに」をシェーカーで作ってみた。氷を入れたシェーカーにウイスキー、梅シロップ、レモン果汁を注いで蓋をし、シェイクする。カチャカチャと氷が動く音がして、ステンレス製の容器がたちまち冷えた。蓋を外して、中の液体をグラスに注ぐ。ストレーナが付いているので、氷はシェーカーの中に残ったままだ。要するに、シェーカーという道具は、異なる液体を混ぜるという役目と、液体を氷と激しく接触させて急速に冷やすという役目を持っているのだと理解した。

 グラスに注がれた混合液に、冷えたソーダ水を加え、かき混ぜて出来上がり。なんとなく楽しいプロセスではあるが、別にシェーカーを使わなくてもよいような気もする。これまでの、グラスに氷のやり方と比べ、味も特に変わらない。まあ、本物のカクテルではないからそんなものか、と思った。

 ネットで調べたら、カクテルの中には、シェーカーを使わないものもあるらしい。なんと、カクテルの王様マティーニも、女王のマンハッタンも、ステアという方法で作り、シェーカーを使わないとのこと。「まていに」もシェーカーにそぐわないのか?

 一つ本物のカクテルを作りたくなって、材料を調達した。テキーラ、ホワイトキュラソー、ライムジュースと来れば、マルガリータである。

 学生時代に飲み屋でバイトをしていた次女は、カクテルの作り方を一応心得ている。マルガリータは、グラスの縁に塩をまぶす「スノースタイル」で供するが、そのやり方を教わった。もっとも、カクテルグラスは無いので、ワイングラスで代用したのだが。

 かくして、初めての「本物のカクテル」が出来上がった。皆で試飲したら、そこそこ良い評価だった。ただ次女は「食事をしながら飲むのなら、やっぱりビールかワインだね」と言った。

 さて、数あるカクテルの中で、何故マルガリータだったのか。

 しばしば録画で鑑賞するお気に入りの映画「ゼログラビティ」。その中にこんな台詞があり、常々気になっていた。

 「ヒューストンのスタッフは、マルガリータが大好きだ」